期間限定で無料だということで電脳コイル見てる。
こういう未来ガジェットにはとても心惹かれる。
アクセルワールドでは脳と通信して現実を拡張するデバイスは首につけてるニューロリンカーだけれど、電脳コイルではメガネらしい。
ニューロリンカーが事故で外れることはあまりない気がするので、転んだだけでぼろっと落としてしまうメガネはちょっと不安。
また前者の方が社会のインフラとして欠かせない必需品になっているような?(インターネット以前の電話やテレビみたいな)
電脳コイルでは「メガネに興味ない」って言う人も居たのに対して、ニューロリンカーに興味ないって人はいないと思うし。
幼い頃から子供に与えるか否かはどちらも選択の余地があるように思える。
生身の体で現実を体験しておくことはやはり重要なのだろうし。
最近ものごとがどんどんデジタルに、バーチャルになっていくなか、どういうものはアナログで物質的なまま残しておいたらよくて、どういうものは迷わず実体を奪ってよいのか、と考える。
たとえばお金ってもともと労働の対価を直接ではなくやり取りできるようにするための概念だから、「これにはアナタがn時間働いて作ったxの価値があります」って共通して認められればなんでもよいわけで、実体がなくてもいいと思う。(実体のない電子マネーは不安だと思う人たちはクレジットカードも使わないんだろうね)
でも、たとえば観光地への旅行で楽しむ景色なんかはどんな腕のいい写真家がとっても今のところ画像にしかならないし、音声付の動画にしたところで空気の質感とか香りとかは再現できないし、何より自分が何を感じるかは既にその写真家や動画録った人やらのフィルタと通じて選別されてしまっているので、「この鳥の行方を追いたい」と思ってもフレームアウトしたらもう分からない、その機会は失われてしまう。もっと科学技術が発展して、今はデジタルに届けられない感覚も再現されるようになって、それを人間に入力できるようになったとしても、結局のところそれは”デジタル”である以上避けられないこととして「不連続な、ブツ切りのデータ」でしかないわけでして、たぶんどこまでも近似でしかない。たぶんね。
だから、どれほど通信技術が発達しても、旅行はなくならないと思う。
同様に本も、読書がただそこに記されている文字、記号を取り出していくだけの情報を取るための手段であるならその媒体が紙とインクだろうと、電子書籍だろうと、ぶっちゃけ不快感なく読めれば何でも良いだろうと思うので、そういう本は電子書籍の技術が発達してよりよい仕様が生まれる中で本屋から消えていくだろうけれど、娯楽としての読書には紙に指を滑らせページをカサカサ鳴らしながらめくる楽しみも、レイアウトや装丁を楽しむ面もあるから、そういうことを完全に再現して、かつ紙の本の不便な点である「重い」「(収納すると)かさばる」をクリアするような画期的な何かができない限り、娯楽として楽しまれている本はなくならないと思ってる。
(—!! 電撃文庫マガジンVol.20の付録の丸ごと一冊SAO,AWネタバレ—
あるいは、AWの神保町のように、オンデマンドで欲しい本だけを刷る世の中になるのかもしれない。それだとオンデマンド用のレイアウト/装丁を考えても採算が取れるような本でないと殺風景なことになりそうで悲しいけれど。
—ネタバレここまで—)
電脳コイルで電脳ペットを飼っていたけれど、動物を実際に飼う場合に発生する汚物処理をなくして、健康管理をウェットなものではなくして、という点ではとても私好みの設定だと思った。
ただ、触ってふかふかしていないとか、やっぱりそういう感覚はかけてしまうし、生身よりはお手軽なのかなーという程度。子供に与えて、万一死なせてしまったら動物に申し訳ない生身よりは罪悪感がなくてよいのかもしれない。
私が憑かれたように人間を生身の体から引っぺがして自由に器を移せるようにすべきだ!といっている件も、結局のところこの辺がイカンのだと思う。
「今の生身の体で得られる感覚の経験を、移し変えても同様に得られるようになるか?」とか、「移し変えたり、あるいはどっかにデータとして保管したりしてる人間の情報ってそれホントに人間なの?」とか、「生身から引っこ抜いた人間とよくできた人工知能の挙動に差が無かったら人工知能も命なのか?」とか…。
「生身から人間ひっぺがそうぜ」という私の発想のだめな点がいろいろ見えるね!
「情報にできない感覚」って唱えてるとクオリアの勉強しろカスって思われそうだね!