Friday, 4 March 2011

魔法少女まどか☆マギカを観て思ったこと

先週、とある国立大の前期試験を受けたんだけど、その時出題された現代文の文章が「「見る」と「読む」の違い」というような趣旨のもので、大雑把に要約してしまえば、

無意識な行為としての「見る」ことは動物と同じ「天敵から逃れるため」「食料を得るため」などの手段。意識的な思考活動としての「見る」ことは視覚体験で、近づけば細部が見えて、遠ざかれば全体が見えるようなもの。絵画を近くから、遠くから見ることなど。
それに対して「読む」ことは記号を認識することさえ出来ればいいので、近づこうが遠ざかろうが関係ない。記号は共通する文化に生まれるから、異文化交流で「読めない」記号に出会い、対話することで理解し、読めるようになる。
漫画やアニメは記号を「読む」もので、「見る」ものではない。

というような内容で、「ハァ何いってんの、映像と音の奔流としてアニメ楽しむことだって出来るでしょーが」とか思ったのですが、確かにまどマギは記号だよね、と思った。映像として楽しむこともできなくはないけど(綺麗だから)、上っ面のストーリーをなぞろうと思うだけでも細かいことが気になるようにできてる気がする。
魔女のデザインの細部に意味がこめられているっぽいこととかね。さやかがああなるまではあまり気にならなかったんだけど、魔女の背景を知っていると深読みしてしまう。
さやかが人魚であるのは「ああバッドエンドの人魚姫か」とあっさり分かったつもりになれたけど、車輪とばすのは未だによくわかってないし、他の魔女もどういう願いを持って魔法少女になって、何故魔女になって、どういうのろいを持っているのか、さっぱり分からない。
それを分かるために必要とされてる、基盤となる文化(?)の知識があるように感じる。

ちょっと話が戻るけど、「記号が共通する文化から生まれる」っていうのはあるなーと思う。
身近なものだと学校内でしか通じない略語。
欧米の文学作品はちょくちょく聖書を引用してくるのな、ということを某集中治療室を受験したときに思ったし、普段から気付いていないだけであちこちに潜んでいそう。(ところでPenguin classicsは注釈つけてくれるから異文化の人間にも読みやすくていいですね!)
それとか、アメリカの政治家はconstitutionとか昔の話を引用するの好きだよね。

まったく話がまとまらないけど連想が止まったので終わり。