Tuesday, 6 February 2024

『聲の形』を観て

よく一緒にアニメや映画を観てくれる友人と人の善悪について話していたとき、私に『聲の形』を見せたいと言われたのがきっかけで一週間ごしくらいに実際に一緒に見ることになった。聲の形というと公開された当時、たしかtwitterで「ろう者のお話なのに字幕付きの上映がない/少ない/遅い」(ねとらぼ記事があった)や「いじめの描き方に問題がある」と話題になったようなかすかな記憶がある程度で、私はどういうお話なのか全く知らなかったし、なぜ私に観てほしいのかはぼんやりとしか分からなかった。
実際に観たら予想の数倍は刺さってしまったので、記憶が薄れる前に思ったことを書き残しておきたい。

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Wednesday, 7 April 2021

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を観て

前回から8年とちょっと過ぎていてびっくりします。破が公開された頃からずっとインターネットに住んでいた自分にもびっくりします。直近の1年はその大半をネットも含めた世界から離れていたのですが、それでも連続性のある「私」として同じブログに感想を書きに来ていることに驚きました。……まあ、そんなことはどうでもよく、シンエヴァを観てから3日ほど経つのでそろそろ消化しきれたかなと思い、感想をつらつらまとめています。

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Wednesday, 5 August 2015

Am I worth it?

体調が悪くなるといつも思うのが、「自分は医者にかかってまで治すだけの価値のある人間なんだろうか」ということです。

そもそも、これまで医者にかかっても「安静にしててください」「このまま様子を見ましょう」以外のことを言われることは滅多にないし、そうでない事例は乳歯が虫歯になった時にセメントを詰められた時くらいで、医者に見せても改善しないのにお金だけはかかるわけで、たとえ診てもらうだけでも訓練された専門家の時間を使うからそれは仕方ないにしても、手間もお金も無駄なのでは?と思ってしまうのも当然だろうと。
その「無駄かもしれない」ことをしてでも健康を保つ意味があるのか?

こうやって自分が健康であることに意味が見出せないという時点で精神的には十分不健康なのではないかと思うものの、実際に精神科でもお決まりの「様子を見ましょう~」だったわけで、全く申し分なく健康でこのありさまなのだとしたらやっぱり私には健康を保つ価値はない。

Friday, 28 February 2014

生きていてはいけない人なんて誰もいない

言っていることとやっていることが食い違っていると思うんだけれど、私は自分を指して「はやくしねばいいのになあ」と思い、自分を呪いながら日々を過ごしている一方で、「生きててはいけない人/死んだほうがいい人」なんてひとりもいない、と思いたい。そう思おうとしている。
昔は違った。害のある人間はとっとと死ぬべきだと思ってた。(誰が「害」かどうかを決めるというのか)ひとはだれでも自分ひとりの力で生きて行ける”べき”だと思っていた。
もう、ずっと、ずっと。昔の自分が今の私をみたら、きっと激昂し机を叩き足を踏み鳴らし、声高に「こいつは死ななければならない!」と言うだろう、と思っている。
そう思うから、12才の私に罵られるから、だから私は「はやくしなないかなあ」と思うのだろうか。おまえは正しい、正しいからしぬんだ、と。
そう思うから、12才の私を殺すために、「生きててはいけない人なんて誰もいない」なんていう”きれいごと”を思うんだろうか。おまえは間違っているんだ、正しいのは私だ、私はしなないんだ、と。

人間に無意味に厳しく(そして自分が正しいと盲信していた)私が決して許さない私を許してくれる価値観を求めて「死んだほうがいい人なんていない」なんて言うのだとしたら、それはおそらく逆効果で、まさしく死ぬべきクズということの証明にしかならなくて、別に自分を助けたいと思ってそんな寛容そうなことを言っているわけではないのだけれど、それを証明するためには自分が助からなくてもそう言うであろうこと、自分が助からないこと、もう死んでいることが必要なのではないかとか、そんなことをぐるぐると際限なく考えている。

結局、生きていたいと思う人は生きているべきで、生きていたくないと思った人をどうするかという話なのかもしれない。
すべての人が生きていたいと決めつけるのも、ある生きている人間を「死んでいるべき」と決めつけるのも、どちらも無理のあるはなし。

Sunday, 25 November 2012

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qを観て

公開から一週間近く経った11/23(金)、Qを観てきました。
事前に見かけてたネタバレ(見ても意味分からなかった)はこの二つくらい?

飲み会に一時間遅れていったシンジくんが
「今なんの話?」って輪に加わろうとしたら、「盛り下がるから黙っててくれる?」って怒られて
優しい友達が、「このギャグやればバカうけだよ」って気を使ってくれたんで
思い切ってやってみたら、「お前、それだけはやるなよ!」ってみんなに怒られて、
居酒屋の隅に寝っ転がって泣いてたら、友だちのアスカちゃんが「帰るわよ」って迎えに来てくれた話。

あと、金曜ロードショーでやってた冒頭6分38秒は2,3回通してみて、細かい部分を止めながら確認した、という感じの状態で観てきました。
以下、感想ともなんともつかないもの。
当然ながらネタバレ注意な感じなので、観てない人は逃げてー逃げてー!
パンフレットもさっき読んだので、観たけどパンフまだよって人も一応退避推奨?
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Saturday, 10 November 2012

幾度目かの自覚と諦観と

父親と進歩のない大喧嘩をした。
たぶん父は喧嘩だと思ってなくて、というのも、父は途中から「よき人生とは」みたいな語りに入って、私が完全に死んだ目で、背後のテレビから聞こえるシンジの悲鳴と一緒に聞き流していることにさえ気付いているのかどうか、みたいな有様だった。ひどかった。
だいたいわかりきった話だったし、もうそういうことは考えたんだけど、って思うようなことばかり父が言ってきてとても不愉快だった。
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Thursday, 9 August 2012

大人であることへの忌避

The Chronicles of Narniaの中盤、Susanを指して兄、弟、妹は「可能な限り早く18歳になって、そして可能な限り長くそこに留まるレースをしているようだ」と残念そうに語っていた。彼女は変わってしまった、もはやナルニアを共に分かち合える存在ではなくなってしまったのだ、と。
私はそれが怖かった。私はいつまでもナルニアに居たい。ホグワーツに居たい。目からブレインパワーを射出してチョークを操りたい。18歳になんて、ならなくていい。
これが私の大人になることへの始めの恐怖だったのではないかと、今となっては思う。
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Wednesday, 25 January 2012

愛ってなんなんだってばよ

茶化さないと書けない。愛ってなんなんだってばよ?
広辞苑先生に頼っても、デリケートな話題に於いては無為にたらい回しに遭うだけだということを、小学生のときに私は学びました。なので、辞書に頼らず、自分の頭で考えてみようと思います。
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Sunday, 18 December 2011

つまらないことへの恐れ

twitterにも少し書いたけれど(下記)


面白くなければならない意識がある。つまらないと思われることを恐れている。それは、


にあるような、「きれい」「かわいい」「面白い」の三択の末のことなのかもしれないし、先述のような「面白がられること」に対して「期待にこたえなければならない」と思っているだけなのかもしれない。

自分が「きれい」あるいは「かわいい」というカテゴリに存在する人間になるより、「面白い」と言われるほうがしっくりくるので、無意識にその選択はしているような気はする。でも、私が自分を「面白い」人間だと思ってるかと言うと、そんなことは全くない。
もうこれまで何度も語りつくしたように、私は小さい頃から自分が他者と同化しようとしても上手くいかない、異物として、灰汁のように、こどもの社会から浮き出し、すくいとられることなく漂ってきて、「致命的に異なっている」と突きつけられ続けてきた私ですから、自分が「普通」だとは思わない、でもその「非・普通さ」は決して肯定的なものではなくて、薄暗く湿った性質のもので、「面白さ」「ユニークさ」とは、全く違う。
これもまた、今まで厭になるほど、何度も書いたことだけど、私は自分を肯定的に捉えられないから、それも上記の「非・普通さ」を重苦しくしめつけているのだと思う。

「つまらない」ことへの恐れと、自分に「面白さ」があるとは思えない疑いと、その二つの間でギシギシときしみながら私の自意識は膨れ上がっているのだけれど、これは大抵の「私のことを肯定的に捉える言葉」を私が浴びたときに起こることでもあるわけで、なんていうか別に「つまらなさへの恐れ」とかわざわざ書かなくてもいい気がしてきた。
ただ、ほかのある「褒められること」が大体「本当だったとして、そうでなくなってしまう」要因が主に私の劣化なのに対して、「おもしろさ」って私の劣化以外にも受け取り手の感性もかなり大きく作用するから、他のことよりも私だけのことじゃないのかなあとか思う。(そうでもないかも、たとえば外見についてだって、人によって色々な感性があるのだし)

何が言いたいのかよくわからなくなってきた。

一応書き出したときから考えていた、最後の方に書こうと思っていたことなのだけど、「面白いこと言おう」と思っている人の発言は大体痛々しいし、そういうことは意識してしまったが最後、気にしないでいることなんてできないし、つまりこうやって「つまらないのではないか/面白くないといけない」と思ってしまった時点で私のコンテンツ力は底をついた。

Monday, 19 September 2011

ものを買うということ

ものを買う。
“もの”は物でも事(サービス)でもいい。その何かを得るために、代価として自分の手元からお金とされる何かを幾らか―”もの”の価値に見合った分量―差し出すこと。
ものを作り出すために、あるいは、ことを行うために、割かれた誰かの時間と労力に正しく報いるための報酬。

経済のことは分からない、お金の意味なんて「労働をポータブルにやり取りするためのパラメーター」くらいしか考えたことがない、そんな世間知らずのガキですが、自分が何かを買うのって結構大変なことかもしれない、とか思った。

私が何かを買おうと思ったら、そのために払われるお金は私が親に貰ったもので、つまり父が稼いできたお金で、つまり父の時間と誰かの時間を交換して私はその成果を横取りする形になる。
働けクズニート。
今のところ親に労働しろ、俺の金を使うな、とは言われない、むしろそれどころかアルバイトを禁じられる感じになってしまっているのだけれど、なんにせよ父の労働にただ乗りしてるのは確かだ。
父を雇用している企業は父が既婚子持ちのオッサンだと(雇った当時は独身の若者だったと思うけど)了解しているし、当然給料も家族を養えるように設定されているだろうと、そして父に課される仕事もそれに見合った水準で要求されているだろうとも思うし、父が馘首される様子もないのできっとそれに応えているのだろうと思う。
私が親に貰うお金は企業から与えられる給料の中で想定される「子供に使わせてもいい余裕」に当然収まっているのだろうから、あまり気にせずに自立するまでは堂々と貰い続けていいのかもしれないけれど、労働していないし、労働以外のことをしているだけの価値のある人間だとも思えないし、そういう意味で最近はうしろめたく思う。
親は渡したお金を私が何に使っているのか、大まかにではあるものの、ぼんやりと把握しているし、気に入らないことに使おうとしたら止めるから、うーん。
こうやって書いていると、気にしなくてもいいのかもしれない、と幾らか思う。
家庭内でどうであれ、社会的には他者が代価を払うような価値のあるものを作っていないクズニートであることは確定的に明らか。

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