Thursday, 29 September 2011

K-r買った

K-r、結局なんだかんだとウジウジ言っていたのにアッサリ買いました。
母の挑発するような疑いにイラっときて踏ん切りがついたという、あんまり良くないパターンだったのですが、今のところ後悔する様子はないです。
(自発的に買ったものでないと後から後悔すること多いので。)
先日ウジウジしていたのも挑発で忘れてしまったので、手元に来てから腹の中でヒヤリとした感覚があったのですが、今のところ大丈夫です。

日曜(25日)に注文して、昨日(27日)に届いて、今日(28日)初めて外で写真撮って来ました。自分でよかったと思うものをここに上げてるので、よかったらちらっと見てやってください。

使ってみての感想を書こうと思うのですが、一日でたった90枚ぽっち撮ったところで4年も5年も使ってきたカメラのように、自分の目と手の延長として操作できないなあ、ということを一番強く感じました。
こう、「調整したいけどよくわからん、そのまま撮ってあとで付属のソフトでなんとかしよう、RAWとやらなら調整できるんでしょ」と思ってしまって、撮ったらそれっきりだという覚悟で撮っていたこれまでに比べて、幾らか怠惰な姿勢になっている気がします。jpgで撮るべきなのかも。
それより操作をしっかり覚えて「どこで何ができるか」そして「それを変えたら写真が堂変わるか」を分かっていくほうが大切かもしれない。

あと、付属のソフトで色々面白いことができてしまって、具体的にはカスタムイメージの「ほのか」「銀残し」あたりがすごく面白くて、とりあえずかけてみよう、かけてみたら結構いい感じになるかも、と手当たり次第試してしまって、我ながらそれはどうなのかと思ってしまう節もあります。あと困ったらモノトーンにするの良くない。ぱっとしない気がしたものにモノトーンかけたらよく見える気がするのは気のせい…だと思う。

とりあえず確実にいえることは先ほど上げたflickrのsetの写真、ほのかと銀残し使いすぎで単調な感じがするのから、公開する場合はその辺も考えたほうがよさそう。

Monday, 19 September 2011

ものを買うということ

ものを買う。
“もの”は物でも事(サービス)でもいい。その何かを得るために、代価として自分の手元からお金とされる何かを幾らか―”もの”の価値に見合った分量―差し出すこと。
ものを作り出すために、あるいは、ことを行うために、割かれた誰かの時間と労力に正しく報いるための報酬。

経済のことは分からない、お金の意味なんて「労働をポータブルにやり取りするためのパラメーター」くらいしか考えたことがない、そんな世間知らずのガキですが、自分が何かを買うのって結構大変なことかもしれない、とか思った。

私が何かを買おうと思ったら、そのために払われるお金は私が親に貰ったもので、つまり父が稼いできたお金で、つまり父の時間と誰かの時間を交換して私はその成果を横取りする形になる。
働けクズニート。
今のところ親に労働しろ、俺の金を使うな、とは言われない、むしろそれどころかアルバイトを禁じられる感じになってしまっているのだけれど、なんにせよ父の労働にただ乗りしてるのは確かだ。
父を雇用している企業は父が既婚子持ちのオッサンだと(雇った当時は独身の若者だったと思うけど)了解しているし、当然給料も家族を養えるように設定されているだろうと、そして父に課される仕事もそれに見合った水準で要求されているだろうとも思うし、父が馘首される様子もないのできっとそれに応えているのだろうと思う。
私が親に貰うお金は企業から与えられる給料の中で想定される「子供に使わせてもいい余裕」に当然収まっているのだろうから、あまり気にせずに自立するまでは堂々と貰い続けていいのかもしれないけれど、労働していないし、労働以外のことをしているだけの価値のある人間だとも思えないし、そういう意味で最近はうしろめたく思う。
親は渡したお金を私が何に使っているのか、大まかにではあるものの、ぼんやりと把握しているし、気に入らないことに使おうとしたら止めるから、うーん。
こうやって書いていると、気にしなくてもいいのかもしれない、と幾らか思う。
家庭内でどうであれ、社会的には他者が代価を払うような価値のあるものを作っていないクズニートであることは確定的に明らか。

Continue Reading