『聲の形』を観て

よく一緒にアニメや映画を観てくれる友人と人の善悪について話していたとき、私に『聲の形』を見せたいと言われたのがきっかけで一週間ごしくらいに実際に一緒に見ることになった。聲の形というと公開された当時、たしかtwitterで「ろう者のお話なのに字幕付きの上映がない/少ない/遅い」(ねとらぼ記事があった)や「いじめの描き方に問題がある」と話題になったようなかすかな記憶がある程度で、私はどういうお話なのか全く知らなかったし、なぜ私に観てほしいのかはぼんやりとしか分からなかった。
実際に観たら予想の数倍は刺さってしまったので、記憶が薄れる前に思ったことを書き残しておきたい。

■いじめ
小学6年生のいじめは、成長途上ならではの残酷さがあるよなあと思ういじめ描写だった。かつていじめていた側が問いただされて以後、つぎの標的になるところまで含め、本当に厳しい話だなと思う。
もう少し幼かったら真正面からぶつかって揉めてうまく話し合えば理解し合えるかもしれない。もう少しおとなだったら衝突せずに理解も干渉もせず冷たく無視するだけだったかもしれない。
あるいは私の考えが甘くて、もしかしたら他の年代でも陰湿で残酷ないじめはあるのかもしれない。

私は学校で明確ないじめには遭ったことはない。明確ないじめをしたこともない、と思う。
異物として扱われたことはある。人々の思う「当たり前」と違うことをして笑われて、他人が怖くなったこともある。他の同級生が笑われているのを傍観していたこともある。

そういう程度のいじめへの理解しかない立場でみていて、かつて自分をいじめていた同級生と数年後に再会したときに西宮さんのように受け止められるのか、私には分からなかった。
かつて私が冷ややかに傍観して助けなかった同級生に対して、私が会いに行って謝ることで相手のためになると思えるのか、私には分からなかった。でもそうやって「相手のためにならないだろう」と知らんぷりをずっと続けるのも怯懦かもしれない。
この作品では石田が謝りに行くこと、西宮さんがそれを受け止めることで、二人のつらさが一緒に解きほぐされていくよい方向に進んだけれど、これがどれくらい再現性があることなのか、私には分からなかった。

FF7ACでクラウドが「罪って、許されるのか?」と呟いていたことを思い出す。
大切な人が間違った選択をすることを止められなかった罪に苦しんで30年も立ち止まっていたヴィンセントはそれに対して「試したことはない」と返していた。
贖罪のあり方、悔いて改悛すること、許しを請うこと、人の善性と悪性についてはいくら考えても終わりがない。

■生きづらさ
西宮さんは、ずっと聞こえないことによる生きづらさを抱えてきているんだなと思うと胸が痛くなった。本人になんの非もないのに、転校先でいじめられてまた転校するというのは本人もつらいし、おそらく引っ越さざるを得ない家族への負担も大きいし、負担をかけていると自覚するたびに本人のつらさが更に増えるだろうと思う。少なくとも映画の範囲内では西宮家では母と祖母と妹しか登場しなくて、父が登場しないのは硝子が生きていける環境を作るために働きづめなのかもしれないし、あるいは負担に耐えかねて離婚したのかもしれないと思った。母は登場するときにいつも厳しい表情だったし、妹の結弦ちゃんが不登校なのも関係あるのかもしれない。西宮家はがんばっているけれど幸せそうではなかったし、その中心には周囲の理解不足によって苦しむ硝子ちゃんのつらさがあって、それをなんとかしたいと願い続ける家族のつらさがあるんだろうと思った。
自分を大切に思ってくれる人が苦しむ原因が自分にあると思いながら生きるのは苦しい。
再会した石田と友達になり、親しくなっていく過程で、西宮さんは彼がかつて自分をいじめたことが原因で当時の友情を失って、今もまた当時の罪が原因でせっかくまたできた友達を失いかねないと気づいてしまった西宮さんが、いなくなることを選ぼうとしたのは石田のことを大切に思うからこそだと分かる。

一方の石田くんは、小6の時点では西宮さんの状況への理解が欠けていて、軽率にいじめていたけれど、公の場で糾弾されて自分が次の標的になったことで理不尽にいじめられることが苦しいと分かったようだった。
西宮さんが転校していなくなった後も、小学校を卒業して中学に上がってからも、それどころか高校でまで悪名を背負い続け、一度の過ちのために罪悪感から自分を生きているべきではないと思うまでに至ってしまったのは、周りのケアが足りなかったのだろうなと思った。
彼は実際に酷いことをしたけれど、本人も作中で周囲を糾弾していたように、それはずけずけと悪口を言うなおちゃんもだし、傍観していた委員長風のメガネっ娘もだし、物理的な証拠や目撃証言が残りやすかった石田だけが責められるべきとは私も思えなかった。西宮さんへのいじめには無関係を装って次に石田へのいじめにしれっと加わった児童にはぞっとしたし、それに比べて責任を感じ、罪と向き合い、西宮さんに酷いことをしたからこそ償い方を考えたのはずっと良いことだと思った。

実際に自分に非があるかないかに関わらず、「自分のせいで他人を不幸にした/している」と思いながら生きるのは苦しいし、思い詰めてしまうと自分なんていないほうが世と人のためになるのでは思ってしまう気持ちは二人に共通していると思ったし、私もそれはよく分かると思った。

■生きることを手伝う
自分なんていないほうがよいのでは、と思ってしまっても。
それでも生きてほしいと願われることから逃げずに、その思いを受け止めないといけないとき。
そういう時に手を差し伸べてくれて一緒に歩いてくれる友人がいれば。
生きるのがつらくなったりするし、間違えることもあるし完璧ではないし迷惑をかけることもある、そういう部分も含めて生きる難しさに立ち向かうのを助けてくれる人がいることの、なんと幸せなことか。

人を傷つけないために死のうとするのは間違っているとみんな簡単にいうけど、生きてくれと願った人たちのために生きるのも少し間違っていて、それでは義務とのろいになってしまう。いつか「もううんざりだ、やっぱりお前なんていないほうが良かった」と思われるのではないかと怯えながら暮らすことになってしまう。
存在理由を背負ってくれと祈るのではなく、自分で背負えるようになるまで、見つけられるまで、そうなれるように手伝ってと頼るのが正解っぽい。

■わたくしごと
わりと最近、とても親しい友人に絶交未遂をされて、徹底的に腹を割った結果、未遂で終わることになるというちょっとした一大事があった。
私は友人に迷惑をかけているのではないか、我慢の限界なのではないかと怯えていたし、そういう状態で私の欠点をからかうような冗談を言われると真に受けてすぐ泣くようになっていた。友人は泣いてばかりな状況は私の精神衛生に良くないのではと懸念し、深謀遠慮の末に私と関わることをやめたほうが私のためになる、と思ったとのことだった。
私と関わらないほうがあちらにも迷惑はかからないだろうという諦め、それでも親しい友人を失いたくない我儘、友人の選択を尊重したい気持ちが綯い交ぜになって苦しかった。それでもいつも対話の重要性を説いてきた友人だったからこそ、最後に納得してさようならを言えるようにしたくて、前述の徹底討論に至り、その末にやっぱり友情を続けることになった。
これからも私は迷惑をかけるだろうし、きっとまた迷惑すぎるんじゃないかと不安になるだろうし、不安になった私がふとしたことをきっかけに泣き出すこともまだあるだろう。泣く私に大丈夫だよって声をかけて続けてもらってなんとか気持ちを落ち着ける日も何度もあるだろう。これまで十年以上も自分なんか……と思ってきた人間が明日から急に大丈夫になります、というものではないので、理不尽な不安に苛まされず生きられるようになるまで時間は相当かかるだろう。
それでも焦らずに手を借りながらゆっくり少しずつよくなりたいと思った。人のためではなくて自分のために生きられるようになりたいと思えた。人に迷惑をかけないために付け焼き刃の自尊心を獲得するのではなく、私の幸せを願う人と同じくらい私も自分の幸せを願えるようになりたい。屈折した寂しさに泣くのではなく、曇りない心で人と関われるようになりたい。

とまあ、こういうことがあったのを踏まえて見せてもらった映画だったので、元々は「20年前、同級生へのいじめを傍観していた」という過去エピソードに響くと思ったのかな~程度の気持ちで観始めたのに、蓋を開けてみたらもっと私の本質的な傷に対する答えだった。

制作側が意図したメッセージだったかはわからないけれど、何かしらの刺さりが発生したので私にとってはよい映画でした。

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