twitterにも少し書いたけれど(下記)
ふぁぼられるのとか、読書メーターの感想にナイス貰うのとか、親に「アンタの喋り面白いねえ」って言われるのとか、そういうのを通じて自分が面白いことを言わないといけないような気が少ししているのかもしれないとちょっと思った。別に面白い必要なんて何処にも無いのに。
— 十七夜 (@_17n) December 18, 2011
面白くなければならない意識がある。つまらないと思われることを恐れている。それは、
女子はある段階で「きれい」「かわいい」「おもしろい」の人生の三択をせまられる #WEB_joshikai
— こへだ[Mayumi Morinaga] (@koeda) January 19, 2011
にあるような、「きれい」「かわいい」「面白い」の三択の末のことなのかもしれないし、先述のような「面白がられること」に対して「期待にこたえなければならない」と思っているだけなのかもしれない。
自分が「きれい」あるいは「かわいい」というカテゴリに存在する人間になるより、「面白い」と言われるほうがしっくりくるので、無意識にその選択はしているような気はする。でも、私が自分を「面白い」人間だと思ってるかと言うと、そんなことは全くない。
もうこれまで何度も語りつくしたように、私は小さい頃から自分が他者と同化しようとしても上手くいかない、異物として、灰汁のように、こどもの社会から浮き出し、すくいとられることなく漂ってきて、「致命的に異なっている」と突きつけられ続けてきた私ですから、自分が「普通」だとは思わない、でもその「非・普通さ」は決して肯定的なものではなくて、薄暗く湿った性質のもので、「面白さ」「ユニークさ」とは、全く違う。
これもまた、今まで厭になるほど、何度も書いたことだけど、私は自分を肯定的に捉えられないから、それも上記の「非・普通さ」を重苦しくしめつけているのだと思う。
「つまらない」ことへの恐れと、自分に「面白さ」があるとは思えない疑いと、その二つの間でギシギシときしみながら私の自意識は膨れ上がっているのだけれど、これは大抵の「私のことを肯定的に捉える言葉」を私が浴びたときに起こることでもあるわけで、なんていうか別に「つまらなさへの恐れ」とかわざわざ書かなくてもいい気がしてきた。
ただ、ほかのある「褒められること」が大体「本当だったとして、そうでなくなってしまう」要因が主に私の劣化なのに対して、「おもしろさ」って私の劣化以外にも受け取り手の感性もかなり大きく作用するから、他のことよりも私だけのことじゃないのかなあとか思う。(そうでもないかも、たとえば外見についてだって、人によって色々な感性があるのだし)
何が言いたいのかよくわからなくなってきた。
一応書き出したときから考えていた、最後の方に書こうと思っていたことなのだけど、「面白いこと言おう」と思っている人の発言は大体痛々しいし、そういうことは意識してしまったが最後、気にしないでいることなんてできないし、つまりこうやって「つまらないのではないか/面白くないといけない」と思ってしまった時点で私のコンテンツ力は底をついた。