卒業を翌日に控えて

スカートがてかてかと光ってしまうほど着古した制服を、礼装でない状態で着るのも最後。学年の担任の先生方と、先生-生徒という関係で話すのも最後。3年間使ってきた馴染んだつくりの教室で友達と遊びの話や真面目な話をしたり、バカやったりするのも最後。
しずかに暮れ行く夕陽に照らされて、窓枠が投げかける柔らかな陰影の中、どことなく感傷的な気分になるのも、多分最後。

そんな日々がゆるやかに終わっていってしまう。

卒業式の日、巣立ってしまう瞬間というのはたぶん、動的な感情の爆発を起すのだと思うのです。その感情の種類の如何に関わらず。
卒業した後に心に残る感慨は、懐古にしかならないから。
終わってしまうことへの予感に怯え、それでも避けてはならない結末に向かうしかなくて、そのために歯を食いしばって走りきった後の、この気持ちは、きっと今の私にしかない。

幸か不幸か、幼稚園を”卒園”したことはなく、小学校の卒業式に感動するには中学への期待が大きすぎ、中学を”卒業”することなく高校生になってしまった私にとって、この、高校の卒業が初めてのホームグラウンドの喪失になる。……まあ、ホームというには欠けてしまった時間が多すぎると、言う人もいるのかもしれないけれど。それでも私にとっては、間違いなく一番ホームに近い場所でありつづけてくれたわけで。
高IIIを送る会で、私たちの代の生徒会会長さんが「変わらない」をしきりに連呼した名スピーチをしていたけれど、まさしくその、「空間に付随した変わらなさ」が私にとってのホームだった。居心地がよすぎた。

春から何処かの予備校生になるのか、それとも宅浪するのか。知らない人と肩を並べるのか、或いは孤独に近い形で一年を過ごすのか。
どちらにせよ、私には「いけば約束なしでも誰かしら、私に何らかの温かさをくれる人に会える」なんていう場所はなくなる。(性分として、事前に約束をして人と会うことは苦手だからこれは結構つらい。)
だからと言って、卒業したくない一心で学校という入れ物に縋り付いても、返って来るのはコンクリートのひんやりとしか感触でしかない。風景にちらつく、笑う友人の幻影に苛まされて過ごすならそんなものは要らない。

ホームは明日の昼には失われる。
後に残るのは、思い出が随所に刻まれた母校と、各々の道を歩いていく掛け替えのない友人たちの影。
夜明け前のようなこの風景を、私はいつまで覚えているのだろうか。

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