つまらないことへの恐れ

twitterにも少し書いたけれど(下記)


面白くなければならない意識がある。つまらないと思われることを恐れている。それは、


にあるような、「きれい」「かわいい」「面白い」の三択の末のことなのかもしれないし、先述のような「面白がられること」に対して「期待にこたえなければならない」と思っているだけなのかもしれない。

自分が「きれい」あるいは「かわいい」というカテゴリに存在する人間になるより、「面白い」と言われるほうがしっくりくるので、無意識にその選択はしているような気はする。でも、私が自分を「面白い」人間だと思ってるかと言うと、そんなことは全くない。
もうこれまで何度も語りつくしたように、私は小さい頃から自分が他者と同化しようとしても上手くいかない、異物として、灰汁のように、こどもの社会から浮き出し、すくいとられることなく漂ってきて、「致命的に異なっている」と突きつけられ続けてきた私ですから、自分が「普通」だとは思わない、でもその「非・普通さ」は決して肯定的なものではなくて、薄暗く湿った性質のもので、「面白さ」「ユニークさ」とは、全く違う。
これもまた、今まで厭になるほど、何度も書いたことだけど、私は自分を肯定的に捉えられないから、それも上記の「非・普通さ」を重苦しくしめつけているのだと思う。

「つまらない」ことへの恐れと、自分に「面白さ」があるとは思えない疑いと、その二つの間でギシギシときしみながら私の自意識は膨れ上がっているのだけれど、これは大抵の「私のことを肯定的に捉える言葉」を私が浴びたときに起こることでもあるわけで、なんていうか別に「つまらなさへの恐れ」とかわざわざ書かなくてもいい気がしてきた。
ただ、ほかのある「褒められること」が大体「本当だったとして、そうでなくなってしまう」要因が主に私の劣化なのに対して、「おもしろさ」って私の劣化以外にも受け取り手の感性もかなり大きく作用するから、他のことよりも私だけのことじゃないのかなあとか思う。(そうでもないかも、たとえば外見についてだって、人によって色々な感性があるのだし)

何が言いたいのかよくわからなくなってきた。

一応書き出したときから考えていた、最後の方に書こうと思っていたことなのだけど、「面白いこと言おう」と思っている人の発言は大体痛々しいし、そういうことは意識してしまったが最後、気にしないでいることなんてできないし、つまりこうやって「つまらないのではないか/面白くないといけない」と思ってしまった時点で私のコンテンツ力は底をついた。

2 thoughts on “つまらないことへの恐れ

  1. 余談しかないようなコメントを失礼。

    序盤の余談。「面白さ」といっても、一般的なジョーク・ネタポストの形式を取っている種類の面白さ(世界の切り取り方で楽しませようとする)や、一部のゲーム・小説などの面白さ(慣れない操作・知らない世界を取り込んでいく)や、他にも、奥深さを覚えて、堪能・探究したくなる面白さなど色々ではないか。(未知との出会いに関する反応の幾つかをまとめたもの等?)

    というわけで「面白い人」ってのは、別に前述の例の1つ目、能動的なエンターティナーに限っての形容じゃない。ある人の中に、奥深さ・異質さ(「自分との異質さ」の場合も、「みなれた集団との異質さ」の場合も)さを覚え、更にその異質さが自分にとって「心地よい」と思える場合、その人は(別な意味での)「面白い人」なのだろう。

    君のいう肯定的否定的の話でいうと、「異質さ」が「心地よい」か否か、というのは関係・距離次第。「親密にしていると楽しい」と「遠巻きにしていると楽しい」はイコールではない。無論「自分として心地よい」と「友人として心地よい」も違いうるんでしょう。

    中盤の余談。それと個人的には、
    >「面白いこと言おう」と思っている人の発言は大体痛々しい
    とは思わない。互いに楽しくなろうと会話をするのは自然のことだし、相手が興味を惹くことを提示しようというのも。「痛々しい」となるのは、その発言の内容がそもそも感性に合わないか、発言の形態が感性に合わないか、という時ではない? 前者の例としては、使い古されたエスニックジョークに新鮮味を感じないどころか不快になる、とか。後者の例としては「さあ、笑ってください! 今から面白いこといいますよ! 声を上げて笑ってもスタジオからの笑い声に紛れますよ! 笑った後には字幕で突っ込みどころを表示しますからご自分の思考を反復して同調して」(んなのあるのか)が気に入らない、とか。

    最後の余談。「このブログ(におけるauthor)」としての「私」ならともかくとして、一般に人間のコンテンツ力という表現は好きじゃないな。ごめん、ここまでくるとコメント欄じゃなくてチラ裏か

  2. コメントありがとう!チラ裏かもしれないけどそもそも此処が既にチラ裏のようなものなのでむしろチラ裏のチラ裏だとつまり表なのではないかとか戯言を言ってみるよ。

    ■面白さとは
    確かに、面白さには色々あるよね。それは私も解っていたつもりだったけれど、「関係・距離次第」かあ…。どっちも変わっていくものだものなあ……。捉えどころがない「感性」よりはいくらか納得できるのかもしれない。

    ■痛々しいひと
    うーん、元記事かいた時の私が念頭においてた「痛々しい(と私が感じる)人」って、例えばこう、なんだろう、「こういうキャラなんだけど私これかっこいいでしょ?これ面白いでしょ?」みたいなポーズ(をしていると私が感じてしまって、それ)が鼻につく、「エンターテインメント性高いでしょ私?」みたいな……。あまりきっちり詰めての発言ではなかったので上手くまとまらないのだけれど、たとえば「こういうキャラクター」と決めてポーズをする人でも、そのポーズをするために何かを犠牲にしているとか、ポーズが本当になるとか、そういう「面白いこと言うために身を削って面白くあろうとしてる」感じだと「イタいなー」とは思わない。高みから「まあ私おもしろいんだけどね(笑)」みたいな態度で「こういうの面白いでしょ?」と、パンを鳩に与えるように投げられる感じのする「面白いこと言いますよ」な人は痛々しいと思ってしまう。
    …これ、面白さとか関係なく普通に私が余裕ぶってる人が嫌いという問題なのかもしれない。

    ■コンテンツ力
    考えないで使うには悪いスラングだとは知ってる。リア充、コミュ障とかと似たような系列のものだろうとも。

    全体的に一人勝手に怯えてウワーってなったり、勝手に人を痛々しいなァって言ったりしてて、つまりは私の人間性の問題でこんなガタガタしてるのは知っているー…。

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