愛ってなんなんだってばよ

茶化さないと書けない。愛ってなんなんだってばよ?
広辞苑先生に頼っても、デリケートな話題に於いては無為にたらい回しに遭うだけだということを、小学生のときに私は学びました。なので、辞書に頼らず、自分の頭で考えてみようと思います。

愛って色々ありますね。日本語だと「好き」がlikeで「愛する」がloveのようですがまあどうでもいいでしょう、likeだって場面によっては十分重い。
熟語もたくさんありますよね、有名どころだと恋愛、友愛、親愛、慈愛…?(縁が無いのでこれくらいしかパッと出てこない)
重苦しい文字です。幼い頃は無邪気に「いいことなのに文字がゴツいなー」と思っていましたが、世の中にはヤンデレだってネクロフィリアだってある、そりゃ重くもなります。

そもそも何故急に、こんな思春期の中学生が真夜中に考えそうなことを考えたのか?
わかりやすく、創作物を見ていて思ったことだというだけのことなのですが、本当に、わからない、不思議だ。

『Missing』(甲田学人)の空目くんは恋愛を所有欲とか脳内麻薬の中毒症状だとか言っていたように思います。これはわりと、そうかもしれないなあ、と私は思います。
以前このあたりでのた打ち回っていたように思うのですが、そもそも恋愛ってなんなんですかというところから始めないといけなくなってしまうのでそのあたりは割愛して、とりあえず「男女が親しくなりたいと思ってあわよくば肉体関係を持ちたいと思いあっている状態」と仮に定めておきましょう。相手の生活に干渉したいとか、物理的に束縛したいとか(自分の腕の中にいる間は他所にはいない)、「ひとつになって愛情を確かめたい」とか、そういうのって多分所有欲だし最後のはどう見てもただの性欲だし、よくある(らしい)「いなくなったら寂しい」はどう考えても麻薬中毒の禁断症状ですどうもありがとうございます。リア充しんでろ。恋愛はなんかドロドロしてるっぽい。怖いから次の愛の検証に入りましょう。

友愛。友の愛情。比較的穏やかな印象。
ところで友達も何をもって友達と呼ぶのか、結構ひとによりますよね。個人的な話ですが私は「友達」の範囲はわりと狭くとってしまうほうです。
友愛っていうと曖昧だし、だいたい友情が真剣になっただけのようなイメージしかもてないのですが、「友達」の範疇でできることって限られていそうなイメージもあって、たとえばある程度以上の重さの悩みとか心配事とか厄介ごとは「友達の手には負えない」ものとされて、家族や恋人に謹んで差し上げます、みたいな、そんな冷ややかな対応をされるのではないかという、「友達にできるのはここまで」という透明な境界線がどこかにあるかのような。そういう意味で、友愛はとても薄っぺらい。暖かいけれど薄くて、一枚剥ぎ取ればそこには寒々とした世界が裸で待ち受けていそう。
……そういえば友愛を掲げていた人が何処かに居たような。アッこんなタイミングでこんなこと言うと友愛されちゃいますね。

親愛。親の愛と書くのに別に親からに限りませんよね、親しい愛なのかもしれない。あまり身の回りに見かけません。
英語の手紙に於けるDear xxxxを「親愛なる誰某」という風に略するらしいのですが、Dearは冷静に考えるとだいぶ重い気がする。親愛も重いのかもしれない。重そうな体裁をしているだけかもしれない。

すこし長めのものだと、家族愛とか。
金曜ロードショーで『ALWAYS 三丁目の夕日』(及び、二作目の続~)を見たのだけど、家族の正しい在り方、血が繋がらなくても、言葉が足りなくてすれ違っても、お互いを大切に思う男女と、その二人に大切にされる子供、という構図を示されて、なんだか不思議な気持ちになった。受け取り方が捻くれているのかもしれないけれど。
私の感覚では、大切にできる人というのは、言葉が通じる人だと思っていたから。「言葉が無くても通じる」のは言いと思うけれど、「言葉が無くても通じると思って」という、相手への押し付けはどうなんだろう、押し付けが許されるのが家族なのだろうか。

熟語は色々あるけれど、漠然と「愛」というと、なんだろう。
やっぱり、承認欲求をみたしてくれるものとか、良し悪し含めて受け入れてくれたり、痛みを和らげてくれたりする、そういうものなのかな。
親から与えられる(とされている)無償の、見返りを求めない愛。
つまり、他の愛は、見返りを求める?

(でも、家族への自分の感覚の押し付けが許されるのなら、それが家族間の愛の見返り?)

『子どもたちは夜と遊ぶ』(辻村深月)を読んで、思った――再確認させられたのだけれど、愛を人に向けるというのは、そのまま、相手に要らないといわれることを恐れることなのだ。必要とされていても要らなくなってしまう自分、必要でないのに必要であると偽られる自分、自分の恐れを相手に解消してもらおうとする自分、そういうものに怯える自分。だから、決して相手には届かない距離から(たとえば次元の壁を、テレビの画面を、パルプとインクの境界線を超えて)相手に向ける愛は痛みが無いし、答えはないけれど、それでいい。自分は相手を助けられはしないし、相手に自分を助けることを強いることも無い。
『恋物語』(西尾維新)で誰かが「片思いをずっと続けられたらそれは両想いよりも幸せだと思わない?」と言っていたような気がするのだけれど、たぶん、「相手が自分を必要としてくれるかわからないちゅうぶらりんな状態」である片思いが「相手が自分を必要としなくなるかもしれないがけっぷちな状態」である両思いより安定するし、さらにいうなら「相手に「自分を必要として欲しい」のかが未定な、そもそも自分が相手に愛を向けているのか決めていない状態」が一番安定しそうだ。(ところで恋物語、もうすっかり梗概以外は忘れてしまっていて、もしかしたらこれってもう書かれていることだったかもしれない、どうしよう)

それは僕だよ、間違いなく。
今までも何度かしてきた稚拙な自分語りを不幸にも読んでしまった人なら知っているだろうけれど、私は自分がなにもので、自分が人に対して向ける好意がどういったレベルの、どういった種別のもので、自分が他人に何を望むのか、何を望まれたいのか、とても意図的に、故意に、誤魔化して、戯言ではぐらかしていて、事実自分でもよくわからなくなっている。
ここ暫く、隔週で行っていた「クィア理論入門公開連続講座」でも、あるいは自分がなにものかを自分で定義するためのヒントがあるんじゃないかと思って聞いていたし、あるいはただのパフォーマンスにすぎないのか、中二病の至りなのか、と思ってみたけれど、私のこれは、多分、意図的に、故意に、わざと、自分の手で撹乱してしまっているんじゃないのかな、と。そう思った。
そもそも自分がこうして書いている、自分が思っていると思っていること、自分がこうしていると思っていることが、本当に外から、私でない人の目から見て、そう見えるのか、それさえわからなくなってくるし、自分がそう思っていると思っているだけで、実際のところの行動には全く違う考えがあるように見えるのではないかとか、思ってしまうのだけれど。

たぶん、愛って、そういう揺らぎも、不安も、人に言わないようなことも、黙って笑っている痛みも、全部に効く、的確に弱さを押さえて暴走を防ぐような、特効薬なんだろうなあ、って、思う。飲む勇気がいるのだろうけれど。
だから、やっぱり私にはずっと、無縁なものなのだろうと思う。

というところで切ると「縁があってほしいの?」という疑問を呼びそうなので足しますが、結局のところ、このエントリって「摂取した創作物で立て続けに愛のありかたについて考えさせられてしまって(起爆剤は辻村深月だ)、ちょっと頭が処理落ちしそうだし何かのエラーが出そうだから吐き出して、そういうものと無縁で考え込まない自分に戻るための文」でしかないのです。他に悩むこと、幾らでもある。

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書き終わって六分と経たないうちに追記したいことが出てきたので書き足す。
私が自分から他者への重めの好意を「信仰」って呼ぶのは、多分それが限りなく依存に近くて、結構な気持ち悪さのあるものだから、気持ち悪さを軽減するためにそう言うのかもしれない。依存。私と他人の関わり方はだいたいそんな感じ。何かしらの形で私が一方的に”信仰”して、そう長くもたず、勝手に何かに失望して、掌を返してしまう、だから私には「愛」は無縁です、そういったテーマの創作物にはあまり近づかないほうがいいのかもしれない、というレベルで。

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