大人であることへの忌避

The Chronicles of Narniaの中盤、Susanを指して兄、弟、妹は「可能な限り早く18歳になって、そして可能な限り長くそこに留まるレースをしているようだ」と残念そうに語っていた。彼女は変わってしまった、もはやナルニアを共に分かち合える存在ではなくなってしまったのだ、と。
私はそれが怖かった。私はいつまでもナルニアに居たい。ホグワーツに居たい。目からブレインパワーを射出してチョークを操りたい。18歳になんて、ならなくていい。
これが私の大人になることへの始めの恐怖だったのではないかと、今となっては思う。

Louisa May Alcottの作品というと、やはり”Little Women”が圧倒的知名度を誇ると思うし、我が家には原語も日本語訳もあるし、きっと他にも家にあったり、多少なりとも読んだことがある人はかなり多いと思う。私が小学生の頃、より具体的にはアメリカに居た小3までの間に、家の本棚にはAlcott作品は6冊に増えた。どのタイミングで、どういう順番で増えたかはもうわからない。6冊とも(paperbackなので)折れて縦に細く白い筋が入ってしまうほど愛読していた。うち3冊は”Little Women”とその続編、”Little Men”と”Jo’s Boys”で、残りの3冊は”Eight Cousins”とその続編”Rose in Bloom”、そして1冊で完結している”An Old Fashioned Girl”だった。
この3冊はわりとテーマ(らしきもの)が共通していて、非常に単純に説明してしまうのなら、都会的でファッショナブルな生活と素朴で自然で健康的な生活を対比させ、いかに前者が人間にとって不自然であるか、後者がいかに素晴らしいものであるかを書いている。
都会的でファッショナブルな、コルセットで胴を締め付け、ベラドンナで瞳を大きくみせ、顔に化粧を施し、夜な夜なパーティに明け暮れ、流行を追い求めパリのドレスを崇拝し、若い男女がファッションとして大人の真似事でしかない恋人になり婚約し、夏が終われば婚約を破棄するような、そんな生活を送っていたものの末路がどうなるか。派手な生活に慣れきって、麻痺して、飽いて、狂いきった金銭感覚と不健康な肉体を抱え20歳にしてblaséになってしまうのだ、と。
対して穏やかで堅実で健康的な生活、ライフスタイルとして提示されているのが、お金がなければこつこつと地道に働いて、お金があるなら貧困に苦しむ人々の自立を支援するために使い、いかなる時でも真面目に人と接し、顔を塗り隠すことなく、素朴な衣服に身を包み、互いの人生を高めあえるような人と誠実な結婚をする、そんな生き方。
小学生の私は何度も何度も、ペーパーバックの背表紙がくたくたになるまで、そういった価値観の滲む物語を読んでいたのだ。
気づかないうちにそういった価値観を刷り込まれていた、と言ったらうそになる。小学生の私も恐らく分かっていただろうと思う。集団から、「全体」から、馴染めずに斜め後ろを歩くような小学生だったから、都会的でファッショナブルな人々とは違った方向を向いている主人公たちを仲間だと思っていたのだろうけれど、多分、どこか分かっていたはず。この小説は私にとって福音であるのと等しく呪いにもなるだろうと。
結果、私がどうなったか。顔を塗り隠さないとか、体型を美しくする努力をしないとか、華美な装いには一切興味を持たず、浮ついた男女交際とも一切無縁な、それだけ聞けば主人公たちのようになれたかのような。しかし夜な夜なインターネットを徘徊し、人生に飽いて、絶望し、誠実な人づきあいなど特定の異性に関わらずいかなる人間ともうまくできず。
大人の醜さを忌避し、大人の強ささえ手に入れずに十代を終えてしまった私は、これからどうなる?

全くの余談で脱線でしかないけれど、本を読み粗雑そうな態度で髪の長いJoは恐らく小学生の私の憧れであり、一種のロールモデルだったのではないかと、今こうやって書いていて思い至った。しかし残念ながら家計を支えられるような原稿を書く能力もなく、髪を売って贈りものに充てることもない。小説を書けるJoにもなれず、ピアノ教師として細々とよい客を採り続けるPollyにもなれず、知的な富裕層として幸せを分け与えるRoseにもなれない、実に薄っぺらな模倣にしか過ぎないのが私なのだろうと、思う。そしてそれは美しく強い精神を手に入れる努力を怠る人間に与えられる当然の報いで、自業自得の極みにあり、速やかに与えられない結末でさえ罰の一部なのだろうと、強く思う。

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