幾度目かの自覚と諦観と

父親と進歩のない大喧嘩をした。
たぶん父は喧嘩だと思ってなくて、というのも、父は途中から「よき人生とは」みたいな語りに入って、私が完全に死んだ目で、背後のテレビから聞こえるシンジの悲鳴と一緒に聞き流していることにさえ気付いているのかどうか、みたいな有様だった。ひどかった。
だいたいわかりきった話だったし、もうそういうことは考えたんだけど、って思うようなことばかり父が言ってきてとても不愉快だった。

父は、私が万人が羨むような才能に満ち溢れていて、自分を卑下するのは才能がない人たちに失礼や、というのだけれど、実際のところそんなものはない。なんどでもいうけれど、私には「これひとつでやってける」みたいな才能は一切ない。親ばかもたいがいにしてほしい。
だいたい私がそういうと、多少わたしを知っている人は口をそろえて「英語できるじゃな~い」って言う。私は自分が英語できないことくらい知ってる、できてないことくらい知っている、自覚している、どうにかしたいと思っていないしもう英語と金輪際付き合いたくない、英検一級とってないのもったいないって言われるけどもう二度と受けようと思わない。私程度の英語を使える人なんてどこにでもいるし、私より英語が出来て英語学科に行く人とかもいるしこんな野良英語が多少使える程度の帰国子女崩れを「英語できる」って数えるの本当にやめてほしい、英語は私にとって呪いであり帰国子女であることは額に刻まれた印のようなものなので、この先もし新しく人と知り合うことになっても英語できないヨという顔をしていたい。
はなしがそれた。私がこれくらい激しく英語できないことを反論しても、父はめげなかった。
曰く、英語以外でも勉強が出来るじゃないか、と。ワセダやケイオウに合格するのは誰でも出来ることじゃないぞ、と。
私が思うに、あんな試験って呼べないような試験で受かっても全然たいしたことじゃないし、はっきりいって私が受けたところならどっちも誰でも受かるだろうが、って思ってしまう(もちろん落ちた人というものも存在はしているのでこれは大げさなのだけれど)。あんなので「オレ様は早慶に受かる天才様であるぞ」って顔をしてたら正直鼻で笑われる。ぜんぜん自慢にならない。早慶自体全然自慢にならない。ていうかどんなところでも受かることよりきちんと通い続けるほうが人間として色々問われる気がするから「早慶に合格したことがある?だからどうした」という話である。だいたい、父親はいつも「東大は人間としておかしい、京大がええ」「学歴しかない人間は勉強しかできない人間としていびつな存在」とかわけのわからないことばかり言っているのでその父に早慶受かったことがあるから立派なもんや、と言われるのは、まったくバカにされているようにしか思えない。勉強しか出来ない人間嫌いなんだろう、父親の目から見て私は英語と勉強しかできないゴミなんだろ、じゃあなんで英語と勉強しかできないゴミであることに自信を持てって言ってくるの、真剣に意味が分からないぞ、と。
「私が自分に何かができると思っていないことは、実際にハタチ程度の若者には何も出来ないから正しいけれど、自分に何かができると思っていないことは間違っている」みたいなことを言われて唐突に、在籍していた短い間にうんざりするほど目にした、無根拠な自信に満ち溢れた大学生たちの姿を思い出して、思い出しウンザリとでもいうのか、そういう気分に飲み込まれて、なんか、もう、なんだろう、無根拠な自信を持っていないと生きていけないのかー間違っているのかーそうかーと。

父は「才能があって恵まれているのだから自立する義務がある」「お前を愛してくれる人たち(父、母、祖父母)が死んでからじゃ遅い」と言うのだけれど、べつにその辺の人たちがみんな死んだら、私に「お前が死んだら悲しむ人たちがいるじゃないか」と言われたときの効果がかなり薄くなるので、却ってその方が私が生きていなければならないとされる理由がなくて便利なのではないかとか思ったけど、決して彼らに早死にして欲しいわけではなくて、むしろ私がさっさとくたばりたいだけなのに、なんか難しい。いやになる。

自立しろって父は言うけれど、私だってこんなに話の通じない人と議論にさえならない喧嘩をさせられるくらいなら別の家屋で暮らしたいけれど、実際のところ費用を自分で負担しようと思うと働かないと賄えないし、自分にできる仕事なんてないということは分かっているし諦めているし社会的に存在している人になれるとは思わない、才能がない、才能があってもそれを活かせる私ではない、私が生きてくには私は不完全すぎる、経済的に自立できるとはとても思えない。第一自分を生かすために何かしないといけないのなら生きて無くて言いと思ってる。自分を生かすだけの価値を自分に認めていないから自分のために努力するとか自分のために頑張ることはできない。
多分そういって自分を生かしたいと思う誰かの脛を齧ることしかしないような生き物である時点で自立してないしゴミだと思います。

私が自分のことを生きてて欲しいって思って、自分が生きてくために仕事なりなんなりをしようと思って、そのために何が必要か、どういう我慢を、努力をしないといけないのか考えて、実際に実行に移せるようにならない限り、私は永遠にゴミのままだし、萌える生ゴミ以外のなにものにもならないまま死ぬしかないと思っている。
そういう、自分の価値を自分で認めるというのは、外部にいる他人の承認で代用せずに自分の中から涌いてくるのを待ってる限り、突然悟りの境地に至るより難しいことだと思うし、いまのところ私にはどういう道筋もみえていないです。

ほんとうに進歩がないし、もう何度も私の意見を表明したことなのに、なんども繰り返してきて、壊れたテープレコーダーよりひどいと思う。

ちなみに、こんなことになったきっかけは、私が現在の携帯(Xperia arc)がそろそろ限界で、何かとフリーズしたりアプリが落ちたり電話かかってくるたびにほかのプロセスが死ぬらしく開いてたアプリがくたばってたりと使い物にならないから、機種変更するか補助的な端末(iPod touchとかNexus7を想定していた)の追加購入をさせてくれないか、と頼んだら「自分で要るモノなら自分で買え」と言われたことだった。
電話通じなくても私自身はそれほど困らなくて、というのも自分から電話かけることないし、それより私に連絡とろうとする母と妹がすごく困ることになるし、SPモードメールのアプリがでかすぎてしんどいから維持するためにほかのアプリを消さざるを得なくてちょっと無理、という話をしたら「じゃあメールのアプリ消せば?」と言われたので、今後家族間メール無料の恩恵はなくなるよ、とかそういう現実を教えたのだけど、「メール有料でも端末買い換えるよりやすいでしょ」ということを言われたので、もうこの携帯壊れたら電話持たなくていいな、もう一歩も家から出ないようにしよう、とか拗ねた考えをしている。幼稚。別に誰も私に用事なんてないんだから携帯なんて要らなかったんだね!!!!!って言ってる間にも携帯の電池が切れてて、充電にも行かずにいたらそのあいだに結構急ぐリプライとか来ていて死にたくなった。私に用事ある人が困るのであって、誰にも滅多になんの用事も無いし自分からひとに用事があったらパソコンで連絡を取る私が困るわけではないのが余計にしんどい。
携帯このままだと母や妹が困るからなんとかしたい、ということを再度、もうちょっと強めに言うと、「自分のことが大事だったらこれくらいのお金出して当然っていう脅しは人としてやってはいけない」とがなられて、いや大事とかそういう問題じゃなくて家族が困るんじゃないの?って思った。言った。怒られた。自立しろって話になった。段落戻る。

「親を脅迫する気か」というセリフは今回父から聞くまでも母からも飛び出たことがあって、何かと私は親を脅迫していることになるらしく、親を脅迫するのは人としてやっていはいけないらしいので、人としてやってはいけないことを特に意識せずにやっているような人間として破綻した存在はさっさと死ぬべきなのではないか?と言うとそれもまた脅しになっているらしいのでなんだかもう生きているだけで脅迫らしいし手っ取り早く自殺以外の方法で死ぬべきなのではないかと思ってしまう。自殺だと多分また脅しだって抗議されると思うから。

ところで、携帯とかインターネットってないと不便だけど、たぶんないならないで世界が切り落とされたようになって、誰とも何の連絡も取らず、オフラインで遊べるものやネット無くてもテレビがあれば見れるアニメだけで私の生活が閉じるだけだろうし、新しいものの評判とか何も知ることがなくてそのうち寝たきりになってくたばる、そのほうが便利かもしれない。

あればいいけど無くても別に、っていうものってこれまでもたくさんあって、たとえばお金がちょっとあるときってCD買ったりちょっと高い本も買ったり、楽譜を無意味に買ったり、コミケに行ってみたりするけれど、お金がないニートになってからは正直知り合いに会うために外に出るのも交通費とかを考えるとすごく億劫だし、本くらいしか定期的に出費することを許容できないし、安い金額で長時間遊べるという意味で時間のかかるRPGがすごくいいものに見えてくる。一本で半年~一年くらい遊びつくせるので。
お金ないニートっていうけど、親にお小遣いをもらい続けているし、基本的な金額は高校生だったころと変わらないはずなのに、何故か高校生のときの方が何かと理由をつけて特定用途にお金をもらっていたからお金もちだった。ニートにはお金を特別にもらう理由は何もない。
お金あるなら使うけどないなら欲しい物の存在を無視したりほしいものリストに突っ込んで満足したりできてしまうから、多分インターネットや携帯も壊れて使えなくなったらその生活にいつか慣れるんだと思う。
母はインターネットが私を不幸にしているというけれど、私は別にそう思わない。せいぜい、私の中から涌き出でる不幸を形にするための触媒にはなっているかもしれない、とかそういうレベルのはなし。

いまここに書いたことって全部今までも何度も言っていることだと思うので、なんというのか書いた意味はあんまりないのだけれど、あんまりにも喧嘩で疲れたから私のために吐き出してみている。
才能の話に戻るけれど、母は私の言葉は活き活きしていて、短いメールの文面にも呼吸や打ち込む私の様子が見えるようで楽しいって言う。私がtwitterをしていて、twitterで200人弱の人(botも含んでいるけれど…)にフォローされているというのも、私の語り口が面白いからだろうね、納得だね、というようなことも言う。言葉を使ってなにか仕事をできたらいいのにって言う。
でも私が言葉を連ねて書くのは私の中から出てくる私の気持ちや気分だけだし、そんなもの日記以外の何にもならないし、日記が売れるとしたら有名になってしまった場合くらいだと思うし、私は有名になりたくないから日記が売れる状況にはなりたくない、なので言葉を使ってなにかの仕事をすることはできないと思う。
こうやって誰のためにもならない、私のためになるかさえ怪しいような考えの羅列くらいしか私には書けない。

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