Thursday, 14 July 2011

電脳コイル観てる中でAWとの比較

期間限定で無料だということで電脳コイル見てる。
こういう未来ガジェットにはとても心惹かれる。

アクセルワールドでは脳と通信して現実を拡張するデバイスは首につけてるニューロリンカーだけれど、電脳コイルではメガネらしい。
ニューロリンカーが事故で外れることはあまりない気がするので、転んだだけでぼろっと落としてしまうメガネはちょっと不安。
また前者の方が社会のインフラとして欠かせない必需品になっているような?(インターネット以前の電話やテレビみたいな)
電脳コイルでは「メガネに興味ない」って言う人も居たのに対して、ニューロリンカーに興味ないって人はいないと思うし。

幼い頃から子供に与えるか否かはどちらも選択の余地があるように思える。
生身の体で現実を体験しておくことはやはり重要なのだろうし。

最近ものごとがどんどんデジタルに、バーチャルになっていくなか、どういうものはアナログで物質的なまま残しておいたらよくて、どういうものは迷わず実体を奪ってよいのか、と考える。

たとえばお金ってもともと労働の対価を直接ではなくやり取りできるようにするための概念だから、「これにはアナタがn時間働いて作ったxの価値があります」って共通して認められればなんでもよいわけで、実体がなくてもいいと思う。(実体のない電子マネーは不安だと思う人たちはクレジットカードも使わないんだろうね)
でも、たとえば観光地への旅行で楽しむ景色なんかはどんな腕のいい写真家がとっても今のところ画像にしかならないし、音声付の動画にしたところで空気の質感とか香りとかは再現できないし、何より自分が何を感じるかは既にその写真家や動画録った人やらのフィルタと通じて選別されてしまっているので、「この鳥の行方を追いたい」と思ってもフレームアウトしたらもう分からない、その機会は失われてしまう。もっと科学技術が発展して、今はデジタルに届けられない感覚も再現されるようになって、それを人間に入力できるようになったとしても、結局のところそれは”デジタル”である以上避けられないこととして「不連続な、ブツ切りのデータ」でしかないわけでして、たぶんどこまでも近似でしかない。たぶんね。
だから、どれほど通信技術が発達しても、旅行はなくならないと思う。

同様に本も、読書がただそこに記されている文字、記号を取り出していくだけの情報を取るための手段であるならその媒体が紙とインクだろうと、電子書籍だろうと、ぶっちゃけ不快感なく読めれば何でも良いだろうと思うので、そういう本は電子書籍の技術が発達してよりよい仕様が生まれる中で本屋から消えていくだろうけれど、娯楽としての読書には紙に指を滑らせページをカサカサ鳴らしながらめくる楽しみも、レイアウトや装丁を楽しむ面もあるから、そういうことを完全に再現して、かつ紙の本の不便な点である「重い」「(収納すると)かさばる」をクリアするような画期的な何かができない限り、娯楽として楽しまれている本はなくならないと思ってる。
(—!! 電撃文庫マガジンVol.20の付録の丸ごと一冊SAO,AWネタバレ—
あるいは、AWの神保町のように、オンデマンドで欲しい本だけを刷る世の中になるのかもしれない。それだとオンデマンド用のレイアウト/装丁を考えても採算が取れるような本でないと殺風景なことになりそうで悲しいけれど。
—ネタバレここまで—)

電脳コイルで電脳ペットを飼っていたけれど、動物を実際に飼う場合に発生する汚物処理をなくして、健康管理をウェットなものではなくして、という点ではとても私好みの設定だと思った。
ただ、触ってふかふかしていないとか、やっぱりそういう感覚はかけてしまうし、生身よりはお手軽なのかなーという程度。子供に与えて、万一死なせてしまったら動物に申し訳ない生身よりは罪悪感がなくてよいのかもしれない。

私が憑かれたように人間を生身の体から引っぺがして自由に器を移せるようにすべきだ!といっている件も、結局のところこの辺がイカンのだと思う。
「今の生身の体で得られる感覚の経験を、移し変えても同様に得られるようになるか?」とか、「移し変えたり、あるいはどっかにデータとして保管したりしてる人間の情報ってそれホントに人間なの?」とか、「生身から引っこ抜いた人間とよくできた人工知能の挙動に差が無かったら人工知能も命なのか?」とか…。

「生身から人間ひっぺがそうぜ」という私の発想のだめな点がいろいろ見えるね!
「情報にできない感覚」って唱えてるとクオリアの勉強しろカスって思われそうだね!

Saturday, 9 July 2011

魔法科高校の劣等生を読んで思ったこと

twitterでも喚き散らしていますが(!)、魔法科本当に面白いです。
全くの魔法科初心者がハマって行く様子をいくつかのツイートを取り上げながら追ってみましょう!


とても気軽。誤字を平然と放置してるくらい適当。まさかあとでこうして引用して悶絶するとは思っていなかっただろうな。
「面白かった買おう~」とサラっと言っていることが既にフラグです、ハマらないわけがない。


僅か3.5時間で既に「面白い!」と確信している模様。残念ながら何処まで読んだかは不明。


すでに睡眠時間を奪われることを確信しているらしい。案外ノロい。


モニターだと紙面以上に眼が滑って説明をところどころ読み飛ばしてるらしい。
あと登場人物多いために「人名と顔が一致しない」という現実世界でも発揮されてる悪癖が脳内イメージと名前の紐付けが失敗してるあたりに発揮されてるのか。
文庫版はこのあたりよくなった気がする、一度に出す名前減ったのかな?


無邪気に「エンジニアが強い」とか言ってますが達也が強いのはエンジニアが強いからというか達也だからで、まあ、なんというか…w
でも、ま、戦うエンジニアいいね!好きですエンジニア。


そんな心配なかったね、未だに魔法科クラスタと一切接点が無い。
そろそろ襲撃を掛けに行かねばならないと思ってます。(訳:フォローしに行きます)


これは二点ありまして(たぶん)

  • 想像力等の人間のイメージ力が現実を上書きする…などと言った世界があったらいいのになァと考えていて、アクセルワールド(川原礫)における心意ほどアツくない感じの何かを…とか思ってたらこれまんまサイオンじゃないですかヤダー!
  • 満員電車がイヤだからベルトコンベイヤーみたいに…いやしかし直接飛び乗るのは危ない、スキーのリフトみたいに速度が切り替わるポイント…いやでも全体が減速するんじゃ結局混む事は変わらないし…と考えていたのですが、理想の交通システムKOREDA!!!!

などと考えていたことをスマートに書かれててしまったので、


…というような恥ずかしい反応をしておりました。


「次のページの境目で読み終わろう」って思ってもだいたい気付くと「あれ、なんかまたスクロールバー小さくなってない?」と首をかしげるハメになっていた。


モニターの前に座り続ける気力がなくなって、外伝をXperia arcで読んで寝落ちしたという。読みきったけどね。

ここから先は、魔法科高校の劣等生Web版が既読であることを前提に書いています。そういうわけで未読の人は本編を是非読みましょう。長いって?だからどうした。

上記から分かるように、数日前に読んだばかりの俄かでもあるので、古参の方がもしご覧になっているのでしたら間違い等あっても容赦ください…。
お断りしておきますが、すみません、読み終わったばかりでとてもテンションが高くなっています。

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Saturday, 14 May 2011

性別について思うこと

読んで字のごとく、性別について思うこと。ここしばらく色々思ったことを書いてます。
個人的な話と、一般的(?)な話があるので、まず一般的な話から。

生物としての性別、(@alimusxさんの表現を借りるなら)
http://twitter.com/alimusx/status/69263888444690432
「ヒトのオスとメス」としての性別は、本当にとても不自由で不愉快なものだと思う。それを煩雑さのないシステムに作り変えようと思ってもSFな世界になってくれないと無理。
社会的な性別、いわゆるジェンダー、自分で決めることが多少は許されたほうは、これからいくらでも社会の体制次第で自由で快適なものにできると思う。

肉体と自己認識と周囲の認識が一致してる限り、それぞれの性別についてくるメリットやデメリットはセットだと思うし、もしかしたらバランスがとれているのかもしれないけれど、私の目には全くそう見えなくて、理不尽なシステムだと思ってしまう。
それぞれのいいトコどりをしたいだけの幼稚な感覚なのかもしれない。たぶん、そうだ。でも、私は納得できない。
よくある「俺の考えた最強の××」じゃあるまいし、わりとどうしようもないことだし、そういう感じのあたまおかしいSFでも書いてろカスが、という話だと思うけど、私は性別システムがこうだといいなーというぼんやりした夢がある。実現すべき目標じゃなくて、理想郷のイメージとしての夢。

まず選択可能であって欲しい。
12,13くらいまでは性別のない存在、まだ選択の時が来ていない子供でありたいし、それを過ぎたら自由意志で男性形と女性形のどちらかを選び、違和感があったら一度くらいは取り替えられるようにあってほしい。
生きていく上での負担がイーブンになってほしい、ファッション感覚で気軽に選べるように。(そうでないと、「~だなんて女性形マジ負け組み」となって偏る。別に偏ってもいいのかもしれないけど)
男性であること、女性であることとその人の生き方が結びつく必要がない世界であってほしい。
現在一般的とされてる男女が恋愛関係になって恋人になったり、結婚して夫婦になったり、そういった「特別とされる関係」に、どの組み合わせでも自由になれる社会だったらいい。(そもそも自分がどちらであるか自由に選べるのだし!)
子供を増やすためには女性が必ず10ヶ月も注意を払い続けて「割れ物注意」というような扱いをしなければいけなかったり、苦痛がともなうこととか、全部なくなればいい。そういう「腹を痛めて生んだ子供です」な生み方はしたいだけがすればいい。ヒトを生むのが親の腹でも試験管でもいい。

夢物語なのは知ってる、宇宙生命体と契約して因果律書き換えないとありえないのは知ってる。
そうだったらどんなによかったことか。
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Saturday, 5 March 2011

外見のイメージへの影響ってこわい

わざわざ書くほどのことでも無い気がしたんだけど、自分の中で明らかなひっかかりとして存在してるので一応はきだしておこう。

私は服装について考えることが嫌いだし、派手な服装の人を見ると「わたし!おしゃれしてるんですけど!ちょっとみてます?!」と服が語りかけてくるようでとても嫌だし、そういう意味ではとても差別的です。
自分の服の話をすると、

  • 派手な格好が嫌いだから自分は地味でありたい
  • 自分が女性らしく見られることは嫌
  • ぶっちゃけ服なんて機能的であり、上記を満たしてればそれ以上に金かける理由がない(その金で本を買おう!)

などと思う人間なので、その三つのバランスをとると結果的に黒ずくめに近い格好で街中をうろうろする羽目になる。ついでにいうと大変な無精者なので、もし男に生まれてたら髭も剃らなくて文字通りの不審者として職質の嵐を食らっていたんじゃないのかと思う。そんなどうでもいいところで女でよかったのかもなーと思わなくもないが、それは別の話。

外見ですよ外見。体型やら、生身の体にくっついてくる髪やら皮膚やらの性質は遺伝もあるわけですから、自分の意思でなんとかしようと思ってもどうしようもない部分もある。でも、その上に着る服って、もちろんサイズの制約やら、気候と生地の関係や、TPOに合わせた服装をしなければならないこともあるわけだし、まったく自由だとは口が裂けてもいえませんが、ある程度は自分の意思で選べるわけじゃない。

他人は、そういうところに出てくる好みから逆算して「こういう人なのだろう」って勝手に思う。チャラっとした人にはあまり知的であることを期待しないだろうし、ピシッとしたスーツを着た人は折り目正しい人だろうと期待する。細かいところだとメガネは真面目そうだよねーとか。髪染めてないっておとなしそうだよねーとか。

「勝手にイメージを作ってしまうのだ、おそろしい!」なんて思うのは、現に私も現実だと勝手に人のイメージをつくってしまうからに他ならないわけで、「派手な子=地味な人間を迫害する存在」と勝手に思い込んで、こっちからバリアを張って隠れてしまったりするから。ところが実際にどうしても隠れられない事態に陥って恐る恐る話してみたら案外悪い人じゃなかった…なんていうこともある。(もちろん、予想通り「ださーいきもーい」と嘲笑してくる存在であることもある)自分が差別されるのだと思って逆に差別している自覚はあります。別にいいじゃないの地味でもほっといてよ、っていうのはそのまま「別にいいじゃん派手でもほっといてよ」を認めないといけないのに、私はそこで「派手な人こわいんだよ!あっちいけ!」と思ってしまうのでこれはダメ。

「ネットは表情がないからイカンのだ」というようなことを書いてる文章を今日みかけて、「生身は相手のファッションに怯えることになるからイカンのだ」と私は思った。もちろんそれは、ネットで仲良くしてる人が、実は(私にとって天敵である)「攻撃的な派手さで自分を飾る人」である可能性もあるわけで、その時は「掌を返して距離を置く」なんていう情けない反応をしてしまう可能性も残念ながらあるのだけれど、同時に私の「派手な人は怖いから嫌い」という無意味な反射を緩和する要因になるかもしれないわけで。逆に生身ではとても好みの格好をしている人が、肉体を剥がれた言葉の塊になった途端に醜く思えてもうダメ、と思うことだって(多分)あるわけで。なにが言いたいのかよくわからなくなってきた。外見のイメージに引き摺られないネットは、苦手なタイプの人ともそうと知らずに交流できる可能性があるのでいいですねって言いたかったはず。

でまあ、こんなことを言い出した理由はDQ3の遊び人(男ならピエロ、女ならバニーガール)がLv20になると賢者に転職できること。「ピエロが化粧を剥がしたらクールでかっこいい賢者だった」はいいけど「バニーさんが賢者になります」は納得できないと思ったんだけど、なんでバニーさんダメって思うんだろうなあってぼんやり考えたのです。

追記

書いてから気付いたんだけど、結局「自身を無批判に肯定する人間」への憎悪のあたりに問題の根がありそう。

Friday, 4 March 2011

魔法少女まどか☆マギカを観て思ったこと

先週、とある国立大の前期試験を受けたんだけど、その時出題された現代文の文章が「「見る」と「読む」の違い」というような趣旨のもので、大雑把に要約してしまえば、

無意識な行為としての「見る」ことは動物と同じ「天敵から逃れるため」「食料を得るため」などの手段。意識的な思考活動としての「見る」ことは視覚体験で、近づけば細部が見えて、遠ざかれば全体が見えるようなもの。絵画を近くから、遠くから見ることなど。
それに対して「読む」ことは記号を認識することさえ出来ればいいので、近づこうが遠ざかろうが関係ない。記号は共通する文化に生まれるから、異文化交流で「読めない」記号に出会い、対話することで理解し、読めるようになる。
漫画やアニメは記号を「読む」もので、「見る」ものではない。

というような内容で、「ハァ何いってんの、映像と音の奔流としてアニメ楽しむことだって出来るでしょーが」とか思ったのですが、確かにまどマギは記号だよね、と思った。映像として楽しむこともできなくはないけど(綺麗だから)、上っ面のストーリーをなぞろうと思うだけでも細かいことが気になるようにできてる気がする。
魔女のデザインの細部に意味がこめられているっぽいこととかね。さやかがああなるまではあまり気にならなかったんだけど、魔女の背景を知っていると深読みしてしまう。
さやかが人魚であるのは「ああバッドエンドの人魚姫か」とあっさり分かったつもりになれたけど、車輪とばすのは未だによくわかってないし、他の魔女もどういう願いを持って魔法少女になって、何故魔女になって、どういうのろいを持っているのか、さっぱり分からない。
それを分かるために必要とされてる、基盤となる文化(?)の知識があるように感じる。

ちょっと話が戻るけど、「記号が共通する文化から生まれる」っていうのはあるなーと思う。
身近なものだと学校内でしか通じない略語。
欧米の文学作品はちょくちょく聖書を引用してくるのな、ということを某集中治療室を受験したときに思ったし、普段から気付いていないだけであちこちに潜んでいそう。(ところでPenguin classicsは注釈つけてくれるから異文化の人間にも読みやすくていいですね!)
それとか、アメリカの政治家はconstitutionとか昔の話を引用するの好きだよね。

まったく話がまとまらないけど連想が止まったので終わり。

Sunday, 20 June 2010

ゲームって人生じゃね?

午前三時頃のこと。
殆ど引きこもりのような生活をしているばかりに、中3の夏にカップ麺で火傷したトラウマを抱えながらもカップ麺やらインスタント食品に頼らざるを得ない自分が情けないのだけれど。
暑さ対策と称してよれよれの観光地Tシャツと短パンに身を包み、一日ほど古くなった新聞や未開封の郵便物を左手に、明かりを落とした食卓で静かに麺を頬張りながら、ぼんやりと今やっているゲームのパーティ編成をより合理的に組み替えられはしないかなどと考えていたら、タイトルのような考えが降ってきた。おい雑魚相手にhageないパーティのアイディア降って来いよ。
(しかし、そもそもtwitterのbio等に浪人と名乗っておきながら何故ゲームをしているのかと言う問題がある)
で、深夜だからと油断して頭の悪い、支離滅裂な文章を書こうとしていたはずが、WordPressのアップデートに手間取っているうちに、気がつけば外では鳥が囀り、階段の明り取りから光が差し込み、早朝と言われる時間帯に移ってしまったらしい。なんてこった。
そもそも深夜だから見る人が少ないだろうという発想が流速の衰えるタイムラインを前提としたものであって、フィードを購読されてしまう可能性があるブログだと全然あてにならない。何考えてんだコイツ。

わざとらしく脱線してみた。
で、タイトルに戻ろう。
ゲームって人生じゃね?について。
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Monday, 19 April 2010

Sunday, 7 March 2010

卒業を翌日に控えて

スカートがてかてかと光ってしまうほど着古した制服を、礼装でない状態で着るのも最後。学年の担任の先生方と、先生-生徒という関係で話すのも最後。3年間使ってきた馴染んだつくりの教室で友達と遊びの話や真面目な話をしたり、バカやったりするのも最後。
しずかに暮れ行く夕陽に照らされて、窓枠が投げかける柔らかな陰影の中、どことなく感傷的な気分になるのも、多分最後。

そんな日々がゆるやかに終わっていってしまう。

卒業式の日、巣立ってしまう瞬間というのはたぶん、動的な感情の爆発を起すのだと思うのです。その感情の種類の如何に関わらず。
卒業した後に心に残る感慨は、懐古にしかならないから。
終わってしまうことへの予感に怯え、それでも避けてはならない結末に向かうしかなくて、そのために歯を食いしばって走りきった後の、この気持ちは、きっと今の私にしかない。
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